『伊勢物語』より

作者

 不明

作品名

 『伊勢物語』

成立年代

 10-11世紀

その他

 『伊勢物語』は、平安時代の歌物語。在原業平(ありわらのなりひら,825-880)を思わせる人物を主人公とし、その初冠(ういこうぶり)から臨終までの生涯をたどる。原型は『古今集』(ca.914)以前に成立、現在の形に成長したのは11世紀以後、流布しているのは藤原定家(1162-1241)の校訂本。 
 在原業平は、父は平城天皇皇子阿保(あぼ)親王(792-842)、母は桓武天皇皇女伊登(いと)内親王(?-861)。826在原姓を賜る。位は従4位上、右近衛権中将に至り、在中将・在五中将と呼ばれた。二条后高子(たかいこ)・斎宮恬子(てんし)らとの恋愛、惟喬(これたか)親王との親交、東下りなどで有名。兄に行平(818-893)、子に棟梁(むねやな)・滋春(しげはる)、孫に元方(もとかた)らがいる。   

目次

 第1段  忍の亂れ
 第3段  ひじきも
 第9段  東下り
   その一   八橋
   その二   蔦の細道
   その三   富士山
   その四   隅田川の都鳥
 第10段  三芳野のたのむの雁
 第12段  武藏野の野火
 第13段  武蔵鐙
 第17段  櫻
 第18段  うつろへる菊
 第20段  やよひのもみぢ
 第21段  忘れ草
 第31段  忘れ草
 第32段  しづのをだまき
 第37段  あさがほ
 第41段  紫のゆかり
 第51段  菊
 第60段  たちばなの香
 第80段  やよひの藤
 第82段  「世の中にたえて櫻のなかりせば」
 第87段  蘆屋の灘の黄楊の小櫛。浮海草(うきみる)
 第90段  櫻
 第92段  蘆邊漕ぐ小舟
 第97段  藤原基経、40の賀
 第100段  忘れ草と忍ぶ草
 第101段  藤の挿花 




第一段

 むかし、おとこ、うゐかうぶりして、ならの京、かすか(春日)のさと(里)にしるよしして、かり(狩)にいにけり。そのさとに、いとなまめいたるをんな(女)はらからすみけり。このおとこ、かいまみてけり。おも(思)ほえずふるさと(古里)に、いとはしたなくてありけれは、ここち(心地)まと(惑)ひにけり。おとこのき(著)たりけるかりぎぬ(狩衣)のすそ(裾)をき(切)りて、うた(歌)をかきてやる。そのおとこ、しのぶずりのかりぎぬをなむきたりける。
   かすかの(春日野)のわかむらさき(若紫)のすり衣
      しのふ(忍)のみた(亂)れかき(限)りし(知)られす
となむ、をいつきていひやりける。ついておもしろきことともや思けん。
   みちのくの忍もちすり たれ(誰)ゆへにみた(亂)れそめにし我ならなくに
といふうたの心はえなり。むかし人は、かくいちはやきみやひ(雅)をなんしける。


 第一の歌は、『新古今集』11、恋歌1に在原業平の歌「女につかはしける」として載る。
 第二の歌は、『古今集』14、恋4に河原左大臣源融の歌として載る。ただし、
   みちのくのしのふもちすり誰ゆへにみだれむと思我ならなくに

 「しのぶ」と呼ばれた植物については、シノブの誌を見よ。

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第三段

 むかし、おとこありけり。けさう(懸想)しける女のもとに、ひしきもといふものをやるとて、
   思ひあらはむくら(葎)のやと(宿)にね(寢)もしなん ひしきものにはそて(袖)をしつゝも
 二條のきさき(后)のまたみかと(帝)につか(仕)うまつりたまはて、たゝ人にておはしましける時のこと也。


 『大和物語』第161段に、
 ざい(在)中將(在原業平)、二條のきさい(后)の宮まだみかど(帝)にもつかうまつりたまはで、たゞ人におはしましけるよ(世)に、よばひたてまつりける時、ひじきもといふものををこせて、かくなむ。
   おも(思)ひあらはむくらのやとにねもしなん
       ひしき物にはそてをしつゝも
となむのたまへりける。かへしを、人なむわすけにける。・・・

 「ひしきも」は、『和名鈔』に「ひすきも」、今日のヒジキ。

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第九段

 〔第九段の一、八橋
 むかし、おとこありけり。そのおとこ、身をえう(要)なき物に思なして、京にはあらじ、あづま(東)の方にす(住)むへきくに(國)もと(求)めにとてゆきけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道し(知)れる人もなくて、まどひい(行)きけり。みかは(三河)のくに(國)、やつはし(八橋)といふ所にいたりぬ。そこをやつはしといひけるは、水ゆく河のくもて(蜘蛛手)なれは、はしをや(八)つわたせるによりてなむ、やつはしといひける。そのさは(澤)のほとりの木のかけ(蔭)におりゐて、かれいひ(乾飯)くひけり。そのさは(澤)にかきつはたいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつはたといふいつもし(五文字)をく(句)のかみ(上)にすへて、たひ(旅)の心をよめ」といひけれは、よめる。
   から衣きつゝなれにしつましあれは はるはるき(來)ぬるたひ(旅)をしそ思
とよめりけれは、皆人、かれいひのうへになみた(涙)おとしてほとひにけり。

 『古今集』9、羈旅歌に、
 あづま(東)の方へ、友とする人、ひとりふたりいざな(誘)ひていきけり、みかは(三河)のくに(國)やつはし(八橋)といふ所にいた(到)れりけるに、その河のほとりに、かきつはたいとおもしろくさけるを見て、木かけ(蔭)におりゐて、かきつはたといふいつもし(五文字)を、く(句)のかしら(頭)にすへて、たひ(旅)の心をよまむとてよめる。
                       在原業平朝臣
   から衣きつゝなれにしつましあれは はるはるきぬるたひをしそ思

 「かきつはた」は、カキツバタ
 八橋の地は、愛知県知立市八橋町、逢妻川(あいづまがわ)の南岸に比定され、今日は八橋山無量寿寺の庭園となり、業平池が作られている。
 藤原孝標女『さらしな日記』(ca.1059)などによると、八橋の地は百年後には荒れ果てていたようだ。カキツバタのページの八橋の項を見よ。


 〔第九段の二、蔦の細道
 ゆきゆきてするか(駿河)のくに(國)にいたりぬ。うつ(宇津)の山にいたりて、わがい(入)らむとするみち(道)は、いとくら(暗)うほそ(細)きに、つた(蔦)かえて(槭)はしけ(茂)り、物心ほそく、すゝろなるめを見ることと思ふに、す(修)行者あひたり。「かゝるみち(道)はいか(如何)てかい(居)まする」といふを見れは、見しひと(人)なりけり。京に、その人の御もとにとてふみ(文)(書)きてつく。
   するかなるうつの山へのうつゝ(現)にもゆめ(夢)にも人にあ(逢)はぬなりけり

 歌は、『新古今集』10羈旅歌に在原業平の歌として載る。

 宇津の山は、静岡県岡部町と静岡市丸子(まりこ)の堺にある峠。
 この物語に基づき、俵屋宗達筆「蔦の細道図」屏風などが画かれた。


 〔第九段の三、富士山
 ふし(富士)の山を見れは、さ(五)月のつごもり(晦日)に雪いとしろ(白)うふ(降)れり。
   時しらぬ山はふしのね(嶺)いつとてかかのこ(鹿の子)またら(斑)にゆきのふるらん
 その山は、こゝにたと(例)へは、ひえ(比叡)の山をはたち(廿)はかりかさ(重)ねあけたらんほとして、なりはしほしり(鹽尻)のやうになんありける。

 歌は、『新古今集』17雜中に、在原業平の歌として載る。


 〔第九段の四、隅田川の都鳥
 猶ゆきゆきて、武藏のくに(國)と下つふさ(總)のくにとの中に、いとおほ(大)きなる河あり。それをすみた河(隅田川)といふ。その河のほとりにむ(群)れゐて思ひやれは、かき(限)りなくとを(遠)くもき(來)にけるかなとわ(侘)ひあへるに、わたしもり(渡守)「はやふね(舟)にのれ、日もく(暮)れぬ」といふに、のりてわたらんとするに、みな人物わひしくて、京に思ふ人なきにしもあらす。さるおりしも、しろ(白)きとり(鳥)のはし(嘴)とあし(足)とあか(赤)き、しき(鴫)のおほきさなる、みづのうへにあそ(遊)ひつゝいを(魚)をく(食)ふ。京には見えぬとり(鳥)なれは、みな人見しらす。わたしもりにと(問)ひければ、「これなん宮ことり(都鳥)」といふをきゝて、
   名にしお(負)ははいさ事と(問)はむ宮こ鳥わか思ふ人はありやなしやと
とよめりけれは、舟こそりてな(泣)きにけり。

 『古今集』9、羈旅歌に、
 むさし(武藏)のくに(國)としもつふさ(下總)のくにとの中にある、すみた川(隅田川)のほとりにいた(到)りて、宮こ(都)の、いとこひ(戀)しうおほ(憶)えければ、しばし河のほとりにおりゐて思やれは、かき(限)りなくとを(遠)くもき(來)にけるかな、とおも(思)ひわ(侘)ひてなが(眺)めをるに、わたしもり(渡守)、「はや舟にの(乘)れ、日く(暮)れぬ」とい(言)ひけれは、舟にのりてわたらむとするに、みな人ものわひしくて、京に思人(おもふひと)なくしもあらす、さるおりに、しろ(白)き鳥のはし(嘴)とあし(足)とあか(赤)きが、河のほとりにあそ(遊)ひけり、京にはみえぬとり(鳥)なりけれは、みな人見し(知)らす。わたしもりに「これはなに(何)とり(鳥)そ」とゝ(問)ひければ、「これなむみやことり(都鳥)」といひけるをきゝてよめる
   名にしお(負)はゝいさことゝ(問)はむ宮ことり
      我おもふ人は有やなしやと

 都鳥は、チドリ目ミヤコドリ科のミヤコドリ Haematopus ostralegus osculans、日本には春秋にまれに渡来するほか、越冬するものが少しある。

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第十段

 むかし、おとこ、武藏のくに(國)までまど(惑)ひあり(歩)きけり。さて、そのくににある女をよは(夜這)ひけり。ちゝ(父)はこと(異)人にあはせむといひけるを、はゝ(母)なんあて(貴)なる人に心つけたりける。ちゝはなおひと(直人)にて、はゝなんふぢはら(藤原)なりける。さてなんあてなる人にと思ひける。このむこ(婿)かねによ(詠)みてをこせたりける。す(住)む所なむいるま(入間)のこおり(郡)、みよしの(三芳野)のさと(里)なりける。
   みよしののたのむのかり(雁)もひたぶるに
      きみ(君)がかた(方)にそよ(寄)るとな(鳴)くなる
むこがね、返し、
   わが方によるとなくなるみよしののたのむのかりをいつかわす(忘)れん
となむ。人のくににても、猶かゝることなんや(止)まざりける。


 これらの歌は、『古今六帖』6、『續後拾遺集』恋3などにも載る。
 入間郡は、武蔵国の郡の一、国のほぼ中央に位置した。今日の川越市・所沢市・入間市・越生町などを含む。
 三芳野の里は、入間郡のうち、今日の川越市・狭山市・大井町・三芳町・坂戸市のあたりを指す。今日の三芳町(みよしちょう)は、明治22年三芳村、昭和45年三芳町、名はこの話に拠って附けられたもので、古名ではない。
 「たのむ」は、「頼む」と「田の面(も)」をかける。明治22年から昭和14年まで、今日の川越市中央部に田面澤(たのもざわ)村があったが、村の名はこの話に拠って附けられたもので、古名ではない。

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第十二段

 むかし、おとこ有けり。人のむすめをぬす(盗)みて、むさしの(武藏野)へゐ(率)てゆくほどに、ぬす人なりけれは、くに(國)のかみ(守)にから(搦)められにけり。女をはくさ(草)むらのなかにを(置)きて、に(逃)けにけり。みち(道)(來)るひと(人)、「このの(野)はぬす人あなり」とて、火つけむとす。女、わ(詫)ひて、
   むさしのはけふ(今日)はなや(燒)きそ
      わかくさ(若草)のつま(端)もこも(籠)れりわれ(我)もこもれり
とよみけるをきゝて、女をはと(取)りて、ともにゐ(率)てい(去)にけり。


 年に一度、早春に枯野を焼いて次の芽生えを促す、野火・野焼きの習慣を背景とする。武藏野は、武藏の國にひろがる薄が原。
 ただし、この物語は状況設定と歌意に齟齬があり、後の改作かともいう。

 『萬葉集』14東歌の雜歌に、
   おもしろき野をばなやきそ ふるくさ(古草)
      にひくさ(新草)まじりお(生)ひはお(生)ふるがに
 『古今集』1春上に、読人不知として、
   かすか(春日)野はけふはなやきそ
      若草のつまもこもれり我もこもれり
 道興准后『廻國雜記』(文明19・1487)に、
 此あたりに野火とめ(止)のつかといふ塚〔新座市平林寺境内〕あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて。烽火たちまちにやけとまりけむとなむ。それより此塚をのびどめと名づけ侍るよし。國の人申侍ければ。
   わか草の妻もこもらぬ冬されに軈てもかるゝのひとめの塚

 
平林寺境内にある九十九(つくも)塚と業平塚
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第十三段

 昔、武藏なるおとこ、。京なる女のもとに、「きこ(聞)ゆれははつ(恥)かし、きこえねはくる(苦)し」とかきて、うはかき(上書)に「むさしあふみ(武藏鐙)」とかきてをこせてのち、をと(音)もせすなりにけれは、京より女、
   むさしあふみ さすかにかけてたの(頼)むには
      と(問)はぬもつらしとふもうるさし
とあるを見てなむた(耐)へかたき心地しける。
   とへはいふとはねはうら(恨)む むさしあふみ
      かゝるおり(折)にやひと(人)はし(死)ぬらん


 武藏鐙(むさしあぶみ)は、むかし武藏国に産した鐙(あぶみ、足踏)。鎖の代りに透かしの入った鉄板を用い、その先に刺鉄(さすが)をつけたもの。
 サトイモ科のムサシアブミという草は、その花の仏焰苞の形が武藏鐙に似ていることから名づけられた。

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第十七段

 年ころをとづ(訪)れざりける人の、さくら(櫻)のさか(盛)りに見にきたりけれは、あるし(主)
   あた(徒)なりとな(名)にこそたてれ櫻花年にまれ(稀)なる人もま(待)ちけり
返し、
   けふ(今日)(來)すはあす(明日)は雪とそふ(降)りなまし
      き(消)えすはありとも花と見ましや


 『古今集』1春上に、
 さくらの花のさかりに、ひさしくと(訪)はざりける人の、きたりける時によみける
                       よみ人しらす
   あたなりとなにこそたてれ櫻花年にまれなる人もまちけり
 返し                    なりひらの朝臣
   けふこすはあすは雪とそふりなまし
      きえすは有とも花と見ましや

 サクラを参照。

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第十八段

 むかし、なま(生)心ある女ありけり。おとこちか(近)う有けり。女、うた(うた)よむ人なりけれは、心見むとて、きく(菊)の花のうつろへるをを(折)りて、おとこのもとへやる。
   紅(くれなゐ)ににほ(匂)ふはいつら白雪の枝もとをゝにふ(降)るかとも見ゆ
おとこ、し(知)らずよみによみける。
   紅ににほふがうへ(上)のしらきく(白菊)はお(折)りける人のそて(袖)かとも見ゆ


 白菊は衰えると紅色に見えるという(『日本古典文学大系』註)
 キクを参照。

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第二十段

 むかし、おとこ、やまと(大和)にある女を見て、よは(夜這)ひてあいにけり。さて、ほと(程)(經)て、みやつか(宮仕)へする人なりけれは、かへ(歸)りくるみち(道)に、やよひ(彌生)はかりに、かえて(槭)のもみぢ(紅葉)のいとおもしろきをを(折)りて、女のもとにみち(道)よりいひやる。
   君かためたお(手折)れる枝は春なからかくこそ秋のもみぢしにけれ
とてやりたりけれは、返事(かへりこと)は京にき(來)(著)きてなんも(持)てきたりける。
   いつのまにうつろふ色のつきぬらんきみ(君)かさと(里)には春なかるらし

 春のかえでについては、カエデの誌を見よ。
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第二十一段

 〔一組の男女が「いとかしこく思ひかはしてこと(異)心なかりけり。さるをいかなる事かありけむ、いさゝかなることにつけて」男は「世中(よのなか)うしと思ひて」女のもとを去った。さて、〕
 この女、いとひさ(久)しくありて、ねむ(念)しわひてにやありけん、いひおこせたる。
   今はとてわす(忘)るゝ草のたね(種)をたにひと(人)の心にまかせずも哉
返し、
   忘草(わすれくさ)(う)ふとたにき(聞)く物ならは思ひけりとはし(知)りもしなまし
又々ありしよりけ(異)にいひかはして、おとこ、
   わする覽と思ふ心のうたか(疑)ひにありしよりけ(異)に物そかな(悲)しき
返し、
   中そらにたちゐるくも(雲)のあともなく身のはかなくもなりにける哉
とはいひけれとも、をの(己)か世々になりにけれは、うとくなりにけり。


 第一の歌は『新勅撰和歌集』14 恋4によみひとしらずとして、第二の歌は『續後撰和歌集』恋5に在原業平の歌として、第三・第四の歌は『新古今集』15 恋5によみ人知らずとして、それぞれ載る。
 忘れ草は、カンゾウ。カンゾウの誌を見よ。

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第三十一段

 むかし、宮の内にて、あるごたち(御達)のつぼね(局)のまへ(前)をわた(渡)りけるに、なに(何)のあた(仇)にか思けん、「よしやくさ(草)葉よ、ならんさが見む」といふ。おとこ、
   つみ(罪)もなき人をうけ(祈)へは
      忘草(わすれぐさ)をの(己)がうへ(上)にそお(生)ふといふなる
といふを、ねたむ女もありけり。


 忘れ草は、カンゾウ。カンゾウの誌を見よ。

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第三十二段

 むかし、物いひける女に、年ころありて、
   いにしへ(古)のしつ(倭文)のをたまき(苧環)くりかへし
      むかし(昔)を今になすよしも哉
とい(言)へりけれと、なに(何)ともおも(思)はずやありけん。


 しづ(倭文)は、カジノキアサなどの繊維をよった糸を赤や青に染め、縞模様や乱れ模様を織り出した古代の布。おだまき(苧環)は、アサの糸を中空に巻いて、円く玉のような形にしたもの。何回も何回も巻くので、歌で「繰り返す」の序として用いられる。

 『古今集』17雜上に、よみ人しらずとして、
   いにしへのしつのをたまき
      いやしきもよきもさかりはありし物也
 のちに静御前(白拍子,源義経の愛妾)は、文治2年(1186)鎌倉の若宮八幡宮に召出され、源頼朝(1147-1199)の前で、
   吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき
   しづやしづ賎
のをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな
と歌い舞った
(『吾妻鏡』・『義経記』)

 オダマキという草花は、その花の形が苧環に似ることから名づけられた。

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第三十七段

 昔、おとこ、色このみなりける女にあ(逢)へりけり。うしろめたくや思けん。
   我ならでしたひも(下紐)(解)くな
      あさかほ(朝顏)のゆうかげ(夕影)(待)たぬ花にはありとも
返し、
   ふたり(二人)してむす(結)ひしひもを
      ひとり(一人)してあ(逢)ひ見るまてはと(解)かしとそ思


 第二の歌は、『萬葉集』12/2919に、
   二(ふたり)して結ひし紐を
     一(ひとり)して吾は解き見じ直(たゞ)に相(あ)ふまでは
 ここに詠われる「あさかほ」は、アサガオムクゲかという。

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第四十一段

 昔、女はらからふたり(二人)ありけり。ひとり(一人)はいや(賤)しきおとこのまづ(貧)しき、ひとりはあて(貴)なるおとこも(持)たりけり。いやしきおとこもたる、しはすのつこもり(晦日)に、うへ(上)のきぬ(衣)をあら(洗)ひて、て(手)つからは(張)りけり。心さしはいたしけれと、さるいやしきわさ(業)もなら(習)はさりけれは、うへのきぬのかた(肩)をは(張)りや(破)りてけり。せむ方もなくて、たゝな(泣)きになきけり。これをかのあてなるおとこきゝて、いと心くるしかりけれは、いときよらなるろうさう(綠衫)のうへのきぬを見いでてやるとて、
   むらさき(紫)の色こき時はめもはるに野なる草木そわかれさりける
むさしの(武藏野)の心なるへし。


 『古今集』17雜上に、
 めのおとうとをもて侍ける人に、うへのきぬををくるとて、よみてやりける
                        なりひらの朝臣
   紫の色こき時はめもはるに野なる草木そわかれさりける

 紫はムラサキ、その根から紫色の染料を採る。「紫のゆかり」、あるいはここに云う「武藏野の心」については、ムラサキの誌を見よ。

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第五十一段

 昔、おとこ、人のせんさい(前栽)にきく(菊)をう(植)へけるに、
   う(植)へしう(植)へは秋なき時やさかさらん花こそち(散)らめね(根)さへか(枯)れめや


 『古今集』5秋下に、
 人のせんさいに、きくにむす(結)ひつけてう(植)へける
   うつ(移)しう(植)へは秋なき時やさかさらむ
      花こそちらめねさへかれめや

 キクを参照。

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第六十段

 むかし、おとこ有けり。宮つかへいそか(忙)しく、心もまめならさりけるほと(程)のいへとうし(家刀自)まめにおも(思)はむといふ人につきて、人のくに(國)へい(去)にけり。このおとこ、宇佐の使にてい(行)きけるに、あるくに(國)のしそう(祗承)の官人のめ(妻)にてなむあるときゝて、「おんなあるし(主)にかはらけ(瓦笥)とらせよ。さらすはの(飮)まし」とい(言)ひけれは、かはらけと(取)りていた(出)したりけるに、さかな(肴)なりけるたちはな(橘)をとりて、
   さ月まつ花たちはなのか(香)をか(嗅)けは むかし(昔)の人のそて(袖)のか(香)そする
とい(言)ひけるにそ思ひいてて、あま(尼)になりて、山にい(入)りてそありける。


 この歌は、『古今集』3夏に「よみ人しらず」として載る。
 タチバナを参照。

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第八十段

 昔、おとろ(衰)へたる家に、ふち(藤)の花う(植)へたる人ありけり。やよひ(彌生)のつこもり(晦日)に、その日あめ(雨)そほふるに、人のもとへお(折)りてたてまつ(奉)らすとてよめる。
   ぬ(濡)れつゝそし(強)ゐてお(折)りつる
      年の内にはる(春)はいくか(幾日)もあらしとおも(思)へは


 『古今集』2春下に、
 やよひのつこもりの日、雨のふりけるに、藤の花を折て人につかはしける
                        なりひらの朝臣
   ぬれつゝそしゐて折つる
      年の内に春はいくかもあらしとおもへは

 フジを参照。

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第八十二段

 むかし、これたかのみこ(惟喬親王)と申すみこおはしましき。やまさき(山崎)のあなたに、みなせ(水無瀬)といふ所に宮ありけり。年ことのさくら(櫻)の花さかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右のむまのかみ(右馬頭)なりける人を、つねにゐ(率)ておはしましけり。時世へ(經)てひさ(久)しくなりにけれは、その人の名わす(忘)れにけり。かり(狩)はねむころにもせて、さけ(酒)をのみの(飮)みつゝ、やまとうた(歌)にかゝれりけり。いまかり(狩)するかたの(交野)のなきさ(渚)の家、そのいん(院)のさくらことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝ををり(折)てかざしにさして、かみなかしも(上中下)みな歌よみけり。うまのかみなりける人のよめる。
   世中(よのなか)にたえてさくらのなかりせは はる(春)の心はのとけからまし
となむよみける。又人の歌、
   ち(散)れはこそいとゝさくらはめてたけれ うき世になにかひさ(久)しかるへき
とて、その木のものはた(立)ちてかへるに、日くれになりぬ。・・・


 惟喬親王(844-897)は、文徳天皇の第一皇子、母は紀名虎の娘静子。大宰帥(858)・常陸太守・上野太守(872)等を歴任。のち出家し、法諱は素覚、比叡山のふもと小野(八瀬)に幽居したので小野宮とよばれた。
 水無瀬は、大阪府の北東部、三島郡島本町広瀬、水無瀬川と淀川の合流点。平安時代には都の貴族の狩猟地・行楽地。
 交野は、大阪市の北東部、交野市。平安時代には皇室の狩猟地。
 ここに右の馬頭と呼ばれるのは在原業平。その名を忘れたとするのは虚構。
 第一の歌は、『古今集』1、春上に、「なきさの院にて、さくらをみてよめる 在原業平朝臣」として載る。

 サクラを参照。 

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第八十七段

 むかし、おとこ、津のくに、むはらのこおり(郡)、あしや(蘆屋)のさと(里)にしるよしして、い(行)きてす(住)みけり。むかしの歌に、
  あしのやのなた(灘)のしほやき(鹽燒)いとまなみ
      つけ(黄楊)のをくし(小櫛)もさ(差)ゝすき(來)にけり
とよみけるそ、このさとをよみける。こゝをなむあしや(蘆屋)のなた(灘)とはいひける。・・・

 その夜、南の風ふ(吹)きて、浪いとたかし。つとめて、その家のめ(女)のこ(子)どもい(出)でて、うき(浮)みる(海松)のなみ(浪)によ(寄)せられたるをひろ(拾)ひて、いゑ(家)の内にもてきぬ。女かた(方)より、そのみるをたかつき(高杯)にも(盛)りて、かしは(柏)をおほ被)ひてい(出)だしたる、かしはにか(書)けり。
   渡(わた)つ海(み)のかさしにさ(差)すといはふも(藻)
      きみ(君)かためにはお(惜)しまさりけり
ゐなか(田舎)人のうた(歌)にては、あま(餘)れりやた(足)らすや。


 第一の歌は、『萬葉集』3/278、石川朝臣吉美侯(いしかわのあそみきみこ)の歌、
   しか(志賀)の海人(あま)は軍布(め)刈り鹽燒き暇(いとま)無み
      髮梳(けづり,くしげ)の小櫛(をぐし)取りも見なくに
の改作かという(『日本古典文学大系』)
 「うきみる」は、ミル科の海藻ミル Codium fragile か。「かしは」は、カシワであろうが、何ゆえに盛りつけたミルを被うのかは不明。

 ツゲカシワを参照。

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第九十段

 むかし、つれなき人をいかてと思わたりけれは、あはれとや思けん、「さらは、あす(明日)ものこ(物越)しにても」とい(言)へりけるを、かき(限)りなくうれ(嬉)しく、又うたか(疑)はしけれは、おもしろかりけるさくら(櫻)につけて、
   さくら花 けふ(今日)こそかくもにほ(匂う)ふとも
      あなたの(頼)みかた あす(明日)のよ(夜)のこと
といふ心はえもあるへし。


 サクラを参照。 

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第九十二段

 むかし、こひ(戀)しさにき(來)つゝかへ(歸)れと、女にせうそこ(消息)をたにえせてよめる。
   あし(蘆)邊こ(漕)くたなな(棚無)しを(小)
      いくそたひゆ(行)きかへるらん し(知)る人もな(無)


 『玉葉集』戀1。
 ヨシを参照。 

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第九十七段

 むかし、ほり(堀)河のおほいまうちきみ(大臣。藤原基経, 836-891)と申すいまそかりけり。四十の賀(875)、九條の家にてらせれける日、中將なりけるおきな(翁)
   さくら花 ち(散)りかひくも(曇)
       お(老)いらくのこ(來)むといふなるみち(道)まか(紛)うかに


 『古今集』7 賀に、
 ほりかはのおほいまうちきみの四十の賀、九條の家にてしける時よめる。
                      在原業平朝臣
   櫻花ちりかひくもれ おいらくのこむといふなる道まかうかに

 サクラを参照。

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第百段

 むかし、おとこ、後涼殿(こうらうでん)のはさまをわた(渡)りけれは、あるやむことなき人の御つほね(局)より、「わす(忘)れくさ(草)をしの(忍)ふくさ(草)とやい(言)ふ」とて、い(出)ださせたまへりけれは、たまはりて、
   忘草お(生)ふるのへ(野邊)とは見るらめと こはしの(忍)ふなり のち(後)もたの(頼)まん


  歌は、『續古今集』戀 4。
 『大和物語』第162段に、
  又、ざい
(在)中將(在原業平)、内にさぶらふに、宮すん所の御かた(方)よりわすれぐさ(忘れ草)をなむ「これはなに(何)とかいふ」とてたまへりければ、中將、
   わすれぐさお
(生)ふるのべ(野邊)とはみるらめど
      こはしのぶなりのち
(後)もたのまむ
となむありける。おな
(同)じくさ(草)をしのぶぐさ、わすれぐさといへば、それよりなむよみたりける。

 忘れ草は、カンゾウ。カンゾウの誌を見よ。
 「しのぶ」と呼ばれた植物について、及び「しのぶ」とカンゾウの関係については、シノブの誌を見よ。

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第百一段

 むかし、左兵衛督(さひょうえのかみ)なりける在原のゆきひら(行平, 818-893。業平の兄)といふありけり。その人の家によきさけ(酒)ありときゝて、うへ(上)にありける左中辨ふぢはら(藤原)のまさちか(良近)といふをなむ、まらうどざねにて、その日はあるまじうけ(饗)したりける。なさけ(情)ある人にて、かめ(甕)に花をさ(挿)せり。その花のなかに、あやしきふち(藤)の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸はかりなむありける。それをたい(題)にてよむ。よみはてかたに、あるし(主)のはらからなる、あるし(主)したまふとき(聞)ゝてきた(來)りけれは、とら(捕)へてよませける。もとよりうた(歌)のことはし(知)らさりけれは、すま(爭)ひけれと、しゐてよませけれは、かくなん。
   さく花のした(下)にかく(隱)るゝ人をおほ(多)み 
      ありしにまさるふち(藤)のかけ(影・蔭)かも
「なと(何故)かくしもよむ」といひけれは、「おほきおとゝ(大臣。藤原義房, 804-872)のゑい(榮)花のさか(盛)りにみまそかりて、藤氏のことにさかゆるをおも(思)ひてよめる」となんいひける。みなひと、そしらすなりにけり。


 『玉葉集』賀。
   フジを参照。

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